なにも信じず、 なにも疑わず、 ただ確認するだけ

すべてのトラブルは
誤解から生まれるのですが、

誤解を減らすには
自己イメージと他者からのイメージを
一致させる必要があります。

 

しかし、

他者が作った自分へのイメージは
とても頑固なので、
すぐに修正できるものではありません。

 

相手の歪んだイメージを修正するには、
まず誠実な行動をとること。

 

誠実な行動をとっていれば、
集団の中では必ず評価されます。

 

集団の中で評価をもらえれば、
一人ぐらい誤解を持たれたとしても
そこまで問題にはなりません。

 

また、

誠実な行動さえしていれば
マイナス評価をされたとしても
周りが別の見方を提案してくれます。

 

+‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+
なにも信じず、
なにも疑わず、
ただ確認するだけ
+‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+

 

言葉をそのまま信じるのは
ちょっと危険なのです。

 

根拠なく信じないで、
正しいか正しくないかを
自分で確認すること。

 

信じる為に
確認するわけです。

 

これは疑う場合も同じ。

 

なんでもかんでも疑えばいい
というわけじゃない。

 

他者を疑う要領で、
自分も疑ってみるといい。

 

正しいと「思う」とか「思わない」というのは、
意識の問題です。

 

それを確認するかどうかは
行動の問題なのです。

 

意識と行動の両面で
他人との結びつきを持つ。

 

そのために
「信じた上で確認する」
という姿勢が大事。

 

自分で確認するわけだから
疑うのと同じ。

 

つまり
「信じる代わりに自分でも確認する」
という意味です。

 

「信じているから確認しない」
というのは、
「疑っているから確認する」
という意識の裏返し。

 

そうではなくて、
信じるから確認するのです。

 

じゃないと、
他人との結びつきが
意識か行動のどちらかに
偏ってしまいます。

 

疑っている場合も同じですね。

 

「疑った上で確認する」ことで、
人との関係が絆となるわけです。

 

確認すれば人と結びつきますが、

確認しなければ
関係を拒否することになります。

 

人間関係は「信じるか、疑うか」ではなくて
「確認するか、しないか」が重要
というわけです。

 

これは、ずっと
口を酸っぱくしてお願いしていますが
なかなか浸透しなくて残念なんです。

 

でも、分かってもらえるまで
諦めず根気よく話すんです。

 

僕の言葉を信じて欲しい、と。

 

僕の言葉を信じるんじゃなくて
疑うのでもなくて、
確認してほしいんだよ、と。

 

信じてしまうから
疑う羽目になる。

 

だったら
最初から信じなきゃ問題無い。

 

僕が信じるのは、
あくまでも自分自身。

 

それ以外は信じたりしない。
だから疑うこともない。

 

疑ってしまって、
仮にそれが勘違いだとなると、
逆に信じなくちゃならないことになる。

 

それはそれで危険。

 

信じるというのが、なぜ危険か?
お分かりいただけたでしょうか。

 

信じた対象からは、
からなず裏切られるからです。

 

親子の関係が
その代表的な例です。

 

その次が、
学校の先生と生徒
監督と選手
師匠と弟子、、、

とにかく上下関係には
「信じる=疑う」という感情を超えた、
もっとシビアな感覚が大切なのです。

 

 

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