すぐ信じる人を信じてはいけない まず疑う人を信じなさい

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すぐ信じる人を信じてはいけない
まず疑う人を信じなさい
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言葉の表の意味から
「占の意図」を読み取ることは
とても疲れる作業です。

 

文脈や表情に集中していないと、
相手は自分の裏の意図を
理解してくれないのです。

 

仕事で疲れた頭にゆとりがない
相手の「裏の意図」を読み取れず、

表面的な言葉を
受け取ってしまうでしょう。

 

そういうときは、

返答を言葉に出さず、
一呼吸おいてゆっくり話す。

 

曖昧な言い方を避けて、
意図を明確に言葉にすれば
誤解は生まないハズです。

 

人によって
違った受け止め方をします。

 

本音を素直に伝えても、
彼は理解してくれたけど、
彼女には理解してもらえない。

 

そんな経験がありますよね?

 

違った価値観を持っているので、
同じ表現であっても、
相手によって異なる捉え方をされてしまい、
それが誤解の要因になります。

 

誤解されていることを怖れない
勇気が必要です。

 

誤解されることは
ごくごく普通なのです。

 

そもそも「誤解されずに伝わっている」
という認識が恐ろしい誤解です。

 

相手を信じたい気持ち、
それは「甘え」です。

 

誤解を恐れずに言いますね。

人間は「誤解する生き物」です。

 

お釈迦様は言いました。

「人を見て法を説く」のだと。

 

人に何かを伝えるときは、
相手の性格や気質を考慮して
適切な言い方をすべきなのです。

 

コンピューターは命令通り動くが
人間は命令通りに動きません。

 

価値観は千差万別ですから
画一的な会話しかできないと
誤解を生むわけです。

 

相手に合わせて、
柔軟に表現を変える。

 

独りよがりな表現にこだわり
理解しない原因は相手のせい
と決めてしまうと、

 

あなたはいつも
誤解された人間です。

 

他人から見る自分は
別人なのです。

 

自分の性格を温厚だと思っていたら
「ルーズで内向的」
と思う人もいるはず。

 

趣味が多くて
新しいことにチャレンジするひとなら
「一貫性がなく不安定」
と思われるでしょう。

 

長所だと思っていた特性が、
人や場面が変われば短所になるのです。

 

このように誤解とは
イメージの不一致から生まれます。

 

「信じる」というのは
「正しいと思う」
だと考えていませんか?

 

すると「違う」とは
「正しいと思わない」
になってしまいますよね。

 

誰かが言ったことを
調べもせずただ信じる。

 

これを妄信と呼び、
それが迷信の発端です。

 

ぼくは迷信を信じませんが、
迷信を信じている人が多すぎる
という世間の風潮を
よく熟知しています。

 

信じる人との関係は
「信じる」か「信じない」という
言葉だけの関係。

 

意見を鵜呑みにせず、
自分で確認した上で、
「あなたは正しかった」となれば

その人との間には、
現実に即した結びつきが生まれます。

 

だから、

信じられるより
疑われた方が健全なので

僕は、常に
誤解を招くような発言をするのです。

 

 

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